‘VOICE’  Category

「玉虫厨子」。

今回の奈良行きでは、久々に法隆寺を4時間かけてガッツリ見てきたのですが、一番驚いたのは、実は「玉虫厨子」でした。大宝蔵院にある実物のほかに、特別展示でそのレプリカが展示されていたのですが、玉虫の羽の使い方も、側面に描かれた絵も、私が勝手な想像とは全然(!)違っていました。
玉虫のほうは、羽を直接本体に並べて貼付けているものと思っていたので、綺麗だとしてもちょっとグロい、なんて思い込んでいたのですが、とんでもない間違いでした。玉虫の羽は、表面が金属の透かし彫りになっている8センチ角くらいの薄い正方形の箱の中に入っていて、透かし彫りの模様を通して輝いている様は、まさに宝石のよう。それが昆虫の羽とはとても思えません。そうした正方形のパーツが厨子のコーナーにタイルのように並べられているのです。
しかしそれ以上の驚きは、側面に描かれた絵。仏教にまつわる4つの場面が四方に描かれているのですが、こんな構図や色の使い方は・・今まで見たことがありません。現代のイラストとしても十分通用する、実に不思議で斬新な絵で、本当にショックを受けました。
ちなみにこれらの絵は、「蜜陀絵(みつだえ)」という、飛鳥~奈良時代だけに現れた一種の油彩技法で描かれています。蜜陀絵のことは、私自身が大学で教えている「色彩学」でも触れることがあるのですが、「玉虫厨子」の絵が蜜陀絵だということも、今回初めて知りました。
Wikipediaによれば、「玉虫厨子」のレプリカは、5年の歳月と1億円以上の費用をかけて作られたのだそうです。

「螺鈿紫檀五絃琵琶」。

奈良に行ってきました。
一番の目的は、奈良国立博物館の「正倉院展」で19年ぶりに展示されている「螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)」。聖武天皇の遺愛の宝物で、おそらくどんな人でも歴史の教科書で見ているはずの、あの楽器です。19年ぶりと聞いて居ても立ってもいられなくなり、奈良行きを強行したのですが、いやー行ってよかったです。写真ではとても分からないほど螺鈿がレリーフ状に見え、驚愕の美しさです。会場では開放絃の音色が一音一音流れているのですが、それだけでも深遠な雰囲気になります。
また「正倉院展」では、光明皇太后が献納した薬物のうちの5品と、薬物の献納目録である「種々薬長(しゅじゅやくちょう)」を展示しており、前回の個展「ECLIPSE(蝕)」で、鎮痛剤を使った作品を初めて発表した私としては、これを見れたのがとてもラッキーでした。ちょうど「正倉院薬物の世界―日本の薬の源流を知る」(鳥越泰義著/平凡社新書)という本を読み始めたところだったのですが、モチベーションがさらに高まりました。

名作とそうでもない作品の違い。

ミラノがある意味不思議なのは、ローマやフィレンツェと違って、美術館が少なく、あっても大したコレクションがないことです。一番大きな「ブレラ絵画館」ですら、作品数はそこそこあっても、歴史的名作は数点ほどしかありません。
しかしそれゆえに、今回いい発見が出来ました。名作とそうでもない作品の決定的な違いです。
ブレラ絵画館のほとんどの作品は技術的には非常に高いものです。しかしなんだか引き込まれません。そういう作品群に取り囲まれて、ちょっと退屈しながら館内を巡っていると、その中にポコッとティツィアーノやティントレットの作品があり、やはり他の作品と全然魅力のレベルが違うことを感じます。それがテクニックとは根本的に異なるところから発生するのだということを確信したのは、ピエロ・デラ・フランチェスカの「モンテフェルトロ祭壇画」を見たときです。
「モンテフェルトロ祭壇画」はそれほど大きな絵ではないし、写実性というようなテクニカルなことで言えば、他の作家の方がよほどリアルです。しかしピエロ・デラ・フランチェスカのあの神々しいまでの画面。まさに次元が違います。
そのときふと感じたのは、この違いは演劇に例えると分かりやすい、ということです。ブレラ絵画館の収蔵作品の多くは宗教画ですから、当然聖書などの物語の場面が描かれています。言うなれば演劇の一場面です。テクニックはすごいのに名作とはいえない絵画は全て、劇的にしようとするあまり無意味に大げさで、個々の要素がばらばらに主張し合った「三文芝居」のように見えるのです。
ところがピエロ・デラ・フランチェスカやティツィアーノにはそれがない。どこかさらっとしているというか、全体が自然に統合されていて、余計な力が入っていない分、かえって絵画全体が引き締まっている。役者も演出担当も全体のコンセプトを完全に理解している演劇、そんな印象です。そして、そこから生じる圧倒的な個性。
「モンテフェルトロ祭壇画」に描かれている人物たちは、ただ普通に立っていて、無表情で、その視線の先もまちまちです。「表現」というようなものが全くない。しかしその、考えていることが読み取れないようなたたずまい、絵画全体に広がっている一種異様な雰囲気が、静謐な神聖さとして立ち現れ、まるで完全に計算された現代演劇を見ているようです。同じことは、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」にも言えます。文字通り時代を超えた巨匠の洞察力に、深く感動しました。

「最後の晩餐」と世界一かわいそうな絵。

前半のミラノの目的は、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」です。銀座かねまつのディスプレイ(2001年)でもモチーフにしているし、自分の作品でも引用したものがあるのですが、今回やっと本物を見ることができました。
「最後の晩餐」はサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の元食堂だった長方形の部屋のひとつの壁全体に描かれた、横巾9メートルにおよぶ壁画です。この部屋には順番に25名ずつくらい、15分間だけ入れます。
美術でも作品によっては「本物はやはりいい」とは限らず、例えばマネの作品を以前パリで見たときなど、正直がっかりしたものですが、「最後の晩餐」はその素晴らしさに唖然とするほどでした。特に全体と細部との調和。画集などではかなりじっくり見て知っているつもりだったのですが、露骨に印象が違うので戸惑いました。
人物の配置や「ダ・ヴィンチ・コード」などで語られる謎めいた部分よりも、テーブル上の食器やパン、あるいは窓の外の風景といったいわば脇役が、目が離せないくらい美しく、少し大げさに言えば、人物たちを取り巻くそれらの細部に神が宿っている、というような印象でした。
ところで、「最後の晩餐」が描かれている壁の真反対には、もうひとつの壁画が描かれています。ドナト・モントルファーノという画家の「キリストの磔刑」です。しかしながら、拝観時間がわずか15分ということもあって、部屋にはこの二つしか作品がないというのに、モントルファーノの絵を見る人など誰一人いません。出口近くの壁全面に描かれているので、皆その前を通るのですが、目に焼き付けた「最後の晩餐」のイメージを汚されたくないとでもいうように、立ち止まることはおろか、ほとんど目もくれずにこの部屋を出て行くのです。
「最後の晩餐」が世界一有名な絵だとすれば、こちらは世界一気の毒な絵としか言いようがありません。私は密かにこの壁画に「モントルファーノの悲劇」という別題をつけました(笑)。

イタリアに行ってきました。

8月末から9月の頭にイタリアに行ってきました。イタリア旅行はたしか4回目ですが十数年ぶり。一日だけ雨が降りましたが、あとは素晴らしいほどの快晴。最高気温28度くらいで湿度も低いので、どんなに歩き回っても汗ひとつかかず、猛暑高湿の日本を抜け出してのいい避暑旅行になりました。
今回は前半ミラノで後半がアルベロベロ。南イタリアを訪れるのはアルベロベロが初めてで、ミラノに比べたらさすがに暑いのかなと思っていたのですが、なんと夜になるとジャケットを着ても少し寒いくらいで驚きました。